兼喜神社
祭神は都城領主10代北郷時久の長子 相久である。
天正7年(1579)相久は父 時久より疑われ、金石城(都城市庄内町)にて自刃したが、のちに時久は相久の霊を崇め祀るために天正9年(1581)若宮八幡を創建したと云われる。そして文禄4年(1595)の北郷家の宮之城(鹿児島県宮之城町)への移封で社殿も彼の地に遷されるが、慶長5年(1600)の北郷家の都城への復領に従い、旧地に遷座された。神名は霊八幡(1608)、兼喜明神(1656)、兼喜大明神(1682)と改号され、また享保11年(1726)には吉田家より正一位の神階を授かり、今日に至った。
本神社は、宝殿・舞殿・拝殿・御供所で構成されていたが、天明8年(1788)に、宝殿・舞殿・拝殿(現社殿)に改築された。特に宝殿は、旧薩摩藩独自の社寺彫刻手法(向拝柱の雲龍彫刻など)を取り入れた遺構であり、現代への社寺建築の技術の移行過程を知る上で歴史的価値の高い建物である。
平成8年8月 都城市教育委員会